Archive for the ‘ 日本文学 ’ Category

本作は、第147回直木三十五賞(直木賞、2012年上半期)を受賞した辻村深月のデビュー作である。彼女はこの作品で、第31回メフィスト賞を受賞した。文庫版で上・下巻計1,000Pをこえる大作だが、最後まで読者をあきさせない展開は、この作品が作者のデビュー作である事を感じさせない、見事な出来となっている。

本作は、とある地方都市にある県下一の進学校・私立西南学園高校で開かれた文化祭最終日に、同校生徒が飛び降り自殺するというニュースで幕を開ける。メディアはこの事件を「原因は受験ノイローゼか?」と報道した。

それから3ヵ月が経過した雪の降る日の朝、普段どおり学校に登校した8人の高校生。彼らはいつもと同じ時間に登校し、授業を受ける…はずだった。

ところが、いつもと様子がおかしい。

校舎の中に、彼ら以外の生徒がいる様子がない。

そればかりか、職員室にも教師がいない。

もちろん、彼らの担任教師も姿を消していた。

彼らは真相を探るべく職員室に潜入し、そこで1枚の写真を見つける。

その写真は、彼ら8人の集合写真だが、写っているはずの1人がいないことに気がつく。

やがて、このクラスで同級生が自殺したことを思い出すが、その人物が誰なのか、顔も名前も思い出せないことに気がついて愕然とする。

そのため自分たちの中に自殺者がいるのではないかと、お互いに腹の探り合いを始める8人。

その過程で、彼らが抱える心の闇が明らかになっていく…。====

いじめ。

たえず付きまとう疎外感。

クラスメートから貼り付けられた「優等生」という疎ましいレッテル。

援助交際。

自分に対する自信のなさ。受験のプレッシャー。漠然とした将来への不安感。

自分に自信がないことから来る、恋愛への恐怖。

失恋。

ストーカーまがいの恋愛感情。

自殺。

繰り返されるリストカット。

無理心中。

この本で取り上げられるテーマは、多くの若者が抱えている問題である。

ぱっと見では「進学校に通う高校生」の彼らも、その心には、人知れぬ闇を抱えている。

本作を読む前か、読んだ後かは忘れてしまったが、 その昔「夜のピクニック」を読み終えたとき、ある種の違和感を感じたのを思い出す。この小説で扱われるテーマが、一晩かけて80㎞をひたすら歩くというのもあるが、その中では複雑で微妙な人間関係にも触れているはいるが、このお話の登場人物の悩みは「冷たい-」の登場人物が抱える悩み、苦しみ、心の闇に比べれば、取るに足らないものである。それだけにこの作品の世界観は、ある種のリアリティを持っているといえるだろう。

そして、突然登場する担任教師。彼の正体とは一体?

さらに、この事象の真相とは…

それから2年経った、夏のある日。

彼らは帰省で地元に戻り、近況報告と当時の思い出話に夢中になっている。

東京の大学に進学した者。

自らの経験を生かすべく、心理学を専攻する者。

教師を目指して、地元大学の教育学部に進んだ者。

京都の大学に進んだ者。

その人物を追いかけるように、京都の医科大学に進んだ者。

京都にいる2人以外の仲間たちは、自殺した元クラスメートの墓参りに行き、冥福を祈った。

クラスメートの自殺は、残されたものに衝撃を与える。

自殺のことなんか忘れたい、思い出したくないという気持ちから起こった、あの事件。

この小説のすごいところは、各人が抱える悩みや心の闇を扱いつつ、決してウェットな展開になっていないということ。これらの問題をテーマに扱うとき、一つ間違えれば、読者に「つらい」という感情をあたえかねない。読者にマイナスの感情を与えない作者の筆力は、ただただうなるばかりである。

最後まで読み通して、彼らの将来に幸あれと思わせる、粋な終わり方。

自分もできることならば、彼らのグループに入ってみたいと思わせる作品はめったにない。これは、そのひとつである。

できることなら、冒頭の自殺の一件は「実は冗談でした」というオチだったらよかったのだが…。

蛇足ながら、私が感じた違和感を一つだけ触れておく。

それは彼らの進路が「文系」「理系」と分かれているのにクラスなのはどうして?ということ。

「普通科」のある高校では、よほど偏差値が低い学校でない限り、高校2年生に進級すると、生徒は自分の将来を見据えて「文系」「理系」のコースを選択するのが普通だ。世間一般でいう「進学校」は、高校3年生になると「国公立文系」「国公立理系」「私立文系」「私立理系」という感じで、細かくコースが分かれる。

ところがこの物語に登場する生徒たちは、文系学部に進んだ生徒もいれば医学部に進んだ生徒もいるのに、1年間同じクラスで学んだとしか思えない。ごく希に、文系・理系のコース分けをしない学校があるという話を、何かの本で読んだ記憶がある。あるいは、自分の受験に必要のない科目の授業中は、他の教室で自習を認めるシステムをとっていたのだろうか。

辻村はこの作品以降、次々と注目作を発表している。

直木賞受賞以後は取り上げる題材が幅広くなったが、個人的には、このような独特なタッチの作品をもっとつくって欲しいな、と思っている。

Facebook にシェア
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`yahoo` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る
Pocket

1980年代から90年代にかけて「少女小説」の世界で一世を風靡した、氷室冴子の学園コメディの傑作である。

徳心女子学園中等部に通う主人公・桂木しのぶは、家庭の事情で、学園内にある寄宿舎・クララ舎に入寮することになった。彼女の同期は漫画家志望でうどん屋の娘・佐倉菊花と、酒蔵の娘・紺野蒔子の2人。新しくクララ舎にはいる生徒は、とある「洗礼」を受けなくてはいけない。彼女たち3人に出された課題は、クララ舎で寄宿生活を送っている生徒45人分のドーナツを作ること。その苦行を乗り越えるために、3人は一致団結して知恵を絞り、作戦を立てるのだが…。

この作品の最大の魅力は、強烈な個性を持つ、主人公3人組の存在である。

やさしいが単純、そしてどこかぼけたところがあるしのぶこと「しーの」。

ナルシストを絵に書いたような性格の蒔子こと「マッキー」。

何かある度に自説を主張し、絶対に譲らない菊花(「きっか」と読む。彼女だけが、名前と愛称が同じである)。

彼女たち3人のやり取りだけでも「濃い」ものを感じさせるが、この作品に出てくる先輩、後輩、同級生たちも、彼女たちに負けず劣らずの曲者ぞろいである。

何しろ、先輩方の「別名」からしてぶっ飛んでいる。

「きらめく虹子女史」

「清らなる椿姫白路さん」

「奇跡の高城さん」

なんて、この学校は宝塚かなんかかと思わず突っ込みを入れたくなるが、これには理由がある。

====実はこの人、宝塚歌劇団のファンクラブ会員だったことがあるのだ。宝塚歌劇団をテーマにした漫画の原作を書くことになり、それをきっかけに宝塚に住むことになった。そして正体を隠してファンクラブに加入し、他の会員と一緒にファンクラブ会員の活動をしながら作品の原稿を書いた。ファンクラブでは準幹部の地位まで出世したことを、後年書かれたエッセイの中で明かしている。しかしそのエッセイの中で、自分が作家である事を公開したのか、ファンクラブに入った理由が、漫画の原作を書くことであるかを告白したのかは、管理人はその作品を読んでいないのでわからない。作者が宝塚に転居したのは、本作が刊行された翌年(本作刊行は1980年)である事から、作者はもともと宝塚のファンだったのだろう。物語の中に出てくる文化祭等の学校行事において、後輩が先輩に夢中になる様子が頻繁に出てくるのは、その影響が残っているからかも知れない。

作者は公立共学校出身だが、物語の舞台を「カトリック系女子校の寄宿舎」に設定したのは、著者自身がこの学校にある種の憧れを持っていたからと思われる(モデルになったのは、北海道を代表するお嬢様学校である)。入舎時のドーナツ作戦を皮切りに、しのぶたちの身の上に起きる、信じられないような出来事の連続に「(お嬢様学校の)女子校怖い。女子の世界怖い」と怯える男性読者もいるだろう。もちろんこの学校で起きている出来事が、「お嬢様学校」の実態とは思えないが、現実世界でこれらの出来事は日常茶飯事だったら、生徒は精神的なストレスを感じるだろうなあ。物語の展開に深みが感じられないところもあるが、勢いだけで最後まで読ませてしまう筆者の筆力には、ただただ脱帽するのみである。しかもこの作品を出版したのは、まだ23歳のときだというのだから驚く。

彼女が活躍していた時代は「少女小説」というジャンルが隆盛を極めていた。実は、彼女が出現する前からも「少女小説」というジャンルは存在した。戦前は吉屋信子らの作品が、当時の少女らに愛読されたのだが、戦後まもなく下火になってしまう。1970年代前後、「少女小説」のジャンルで活動している作家は、出版界界隈からも「変人」というレッテルを貼られていた。その当時の様子については、彼女の代表作である「少女小説家は死なない!」に詳しく描かれている。

彼女の名前が世間に広まるのと同じくして、藤本ひとみ正本ノン久美沙織田中雅美ら、文章力やストーリー構成力に秀でた作家たちが続々と登場する。彼ら彼女らの多くはファッションセンスやルックスにも秀でる部分が多かったこともあり、バブル時代には多くの出版社が「少女小説」を扱う文庫レーベルをつくり、市場に参入した。この時代には、世間から「オタッキーなSF本ばかり発行している」と見なされていたハヤカワ文庫も「スイート・ヴァレー・ハイ」シリーズという外国の少女小説シリーズを発行し、後年数々のスキャンダルを起こした元女流棋士・林葉直子も「トンでもポリス(通称「とんポリシリーズ)」という作品を書いていた(それなりに面白かった記憶がある)。

しかしこの時期にデビューした「作家」の作品のほとんどは、作品の質・書かれる内容・文体そのいずれもが、読むに堪えず、多くの読者から「作家・作品の粗製濫造」「二戦級・三戦級の少女マンガ原作を『少女小説』として売り出しただけ」とバカにされた。バブル景気崩壊とともに、彼らの姿は一部をのぞき「文壇」から消え、その作品も多くが絶版になった。あの頃「先生」と持て囃されていた作家は、今どこで何をやっているのだろう?現在は「ライトノベル」が隆盛を極めているが、私からいわせれば、この分野も20年以上前に流行った「少女小説」と同じ運命を辿るのではないか?「少女小説」と「ライトノベル」は、30年後、50年後の日本文学研究者からは、どんな評価を下されるのだろうか気になる。

1990年代後半以降、彼女はほとんど作品を書かなくなる。Wikipediaでは「体調を崩しがちだったため」とあるが、個人的には、自分が活動範囲としていた「少女小説」の分野に、一定水準に達していない作家や作品が世間に多くなり、自身と自作が彼らと同類にされるのを嫌ったのではないか?と推察する。もしそれが本当なら彼女の沈黙は、作家・作品を粗製濫造する出版界への、無言の抗議なのかもしれない。

彼女は2008年、51歳の若さで亡くなる。出版された作品は一部がネット上の「青空文庫」や新装版の形で復刊・再版されただけで、ほとんどの作品が絶版になっているのは、彼女の業績から見ると、不当といわざるを得ない。2018年で没後10周年になるから、それにあわせて彼女の作品の再版をして欲しいと思うファンは、私だけではあるまい。

Facebook にシェア
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`yahoo` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る
Pocket

1969年6月24日未明

京都市内を通る山陰本線を走る貨物列車に

一人の若い女性が飛び込み自殺した。

死後、彼女の下宿の部屋から

10冊を超える大学ノートが発見された。

彼女の父親は、地元の同人誌にその日記を載せたところ、大反響を呼んだ。

その日記は新潮社から発売されると

同時代の若者から熱烈な支持を受け

瞬く間にベストセラーになった。

女性の名前は、高野悦子

1970年代のベストセラーであり、若者のバイブルといわれた

「二十歳の原点」シリーズの作者である。

没後40周年にあたる2009年

「二十歳の原点」シリーズが「新装版」という形で

改めて発行された。

第一巻は、彼女が日記をつけ始めた中学3年(1963年)から、大学受験を控えた高校3年(1966年)までに書かれた日記に加え

高校時代の読書感想文(「アンネの日記」)を収録している。

この本を最初に知ったのは、私が中学時代(いや、高校の時かな?)の時。

当時購読していた雑誌(「中学or高校コース」)に

「わずか20歳で鉄道自殺した女子大生の日記。死後出版されて大ベストセラーになった」

と紹介されていたのを目にした記憶がある。

だがその時は

「ふーん」

といった感じで、どこか他の世界の話という印象しか持てなかった。====2度目の出会いは、某資格関係の学校でアルバイトしていた10年ほど前。

たまたま立ち寄った本屋で、ふらりとこの本を手に取り、ぱらぱらとページをめくっていた。

夢中になって読んだ。

1960年代後半の学生運動の中で実際に起こった、どろどろとした世界。

著者はどんな人だろうとカバーの表折り返しに目を落とすと

そこには「鉄道自殺した」という言葉が載っているではないか。

それが目に入った瞬間、雑誌に掲載されていた紹介文の記憶が鮮明に蘇った。

あの時読んだ雑誌に掲載されていた「自殺した女子大生の日記」というのは

この本のことだったのか、と。

だがまたしても、私がこの本を手に入れることはなかった。

文庫本だし、その気になればまた手に入るだろうと思ったのだろうが

買わなかった理由は、今もよくわからない。

それから数年経過した2009年。

私は都内の書店にて

この本と3度目の対面をする。

出版社が変わり、新装版になって復活したこの作品は

新刊書のコーナーに平積みになっていた

「この機会を逃すと、もう2度と出会えない」

5分後、私の鞄の中にはこの本があった。

2度目の時と同様、夢中になって読んだ。

この本を見て感じたことは

「時代は変わっても、学生が抱える悩みは永遠に不変なのだ」

ということ。

勉強。進路。夢。そして家族のこと。

みじみずしい感性(「お前なんかにいわれたくない」といわれそうで恐縮だが)で綴られるその世界は

時にいとおしく、時に切なく、そして時に哲学的だ。

「心臓弁膜症」という難病(後に「誤診」と判明する)を抱えながらも

彼女は、精一杯命の炎を燃やしていく。

はたから見て、彼女は恵まれた家庭環境に育ち

誰もがうらやむような学校に通いながらも(「県下一」の女子校出身である)

彼女の心は、いつも孤独だった。

成績向上を切に祈り

部活(バスケットボールの選手、後にマネージャーに転向)と勉強の両立を目指し

常に真の友を求めながらも

些細なことに傷つき、嘆き、悩む彼女。

「今やらなければいつやるの!」とわかっていても

目の前の快楽に走ってしまう女子高生。

人間関係をうまく築けず

友人にコンプレックスを抱いている作者。

そんな作者も、高校3年になると

明確に自分のキャリアプランを描くようになる。

当初は、簿記と英語をマスターすることを第一の目標にしていたが

「経済学部なり法学部なりを出ても女子の職業は限られている。

職業としてではなく、教養として学ぶのなら

私の性格からして、そっちのほうが適しているのではないか」

という理由で、彼女は大学で歴史学を学ぶことを決意する。

当時(1966年)は、大学を出ても男子と同等の職場が与えられるかという疑問が

彼女の頭の中にあったことは、日記でも触れられている。

第一志望を立命館にしたのは

歴史の重みを実感できる

「京都」という都市へのあこがれもあった。

中学時代の日記は、ところどころ「幼さ」が垣間見えるが

高校入学後、とりわけ高校2年生後半以降の日記は

哲学者としての顔を見せるようになる。

このあたりの心境の変化は興味深いが

今となっては、確かめるすべはない…

以下追記。

この本が約50年前より反響を得られなかったのは

「時代が違う」と思うしかないのだろうか?

当時は「一億総中流」」といわれるほど

生活に余裕がある人たちが多かったが

今は「自分たちの生活を守ることで精一杯」

という学生がほとんど。

彼らにとって「高野悦子」とは、もはや

「別世界の住人」

に過ぎないと思っているのだろうか。

そうだとしたら、あまりにも哀しすぎる……

Facebook にシェア
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`yahoo` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る
Pocket

Read the rest of this entry
Facebook にシェア
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`yahoo` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る
Pocket

ただし、この時代に青春時代を送った人間全員がこのような恋愛体験をしたと思っているのなら大間違い。バブル時代の恋愛は高学歴・高身長・高収入の「3高」男性だけがちやほやされ、大学生も俗に言う「日東駒専」以下のレベルに通う学生は、おそらく合コンでも相手にされていなかったのではないだろうか?因みに、著者は国立大学を出身の男性である。上記の事実に触れないのは、彼自身もそれなりにおいしい思いをしていたからに相違ない。

一度通読して、私は「たっくん」を「クソ野郎」と思ってしまった。地方大学に通う、自他共に認める「イケていない学生」が、たまたま参加した合コンで本作のヒロイン「マユ」と出会い、男女の関係になる。しかし彼は就職してして上京したとたん、同期でかつ自分よりハイレベルの女性と一線を越え、マユとの関係をあっさりと解消する。会社でも出来の悪い先輩を見下し、会社が持っているのは俺のおかげだ、という傲慢な意識を持つようになる。へぇぇぇそうですか、地方国立大学から東京本社に配属になったのがそんなに偉いのか?東京の大企業への就職を蹴って地元の企業に就職を決めたのは、マユのためだったのではないのか?それなのに、こちらは東京から往復4時間かけてマユに会いに来て(やって)いるのに、向こうはただの一度も東京に来ないのはなぜだ?と悪態をつく。恋愛経験に乏しい男性がはじめて女性を抱き、東京に就職して「エリート扱い」されるとここまで変わってしまうのだろうか?曲がりなりにも、マユのことを気遣っていたはずなのに、どこでどうしてここまで二人の間に距離ができたのか?====私が違和感を抱いたのは、この話の主人公「マユ」が付き合っていた「静岡大学」の「鈴木」という男性にあった。Side-Aの鈴木は、合コンでの自己紹介で「静岡大学の数学科4年生で、就職先は富士通です」と名乗っていた。ところがSide-Bに出てくる鈴木は地元の企業に勤めており、出身大学を問われて「静岡大学物理学科」と答えているではないか!そして書評サイトで指摘されている違和感の理由がやっとわかった。ヒロインのマユが「たっくん」と呼ぶ「鈴木」は、「Side-A」と「Side-B」では全く違う人間なのだ!その証拠が「ラスト2行」に出てくるやりとりだ。下の名前が違っている!名字が同じ「鈴木」で、マユの呼び名が「たっくん」だから、気がつかない人が多かっただろう。普通の物語なら下の名前で書かれているはずだが、この作品では最初から最後まで「鈴木」は「鈴木」以外で書かれることはない、というのがミソである。

読書サイトを見ている限りでは、「マユ」の悪女っぷりを非難する意見が多い。だがこのカップルは本当にマユだけが悪いのか?と考えると、私は明確に「否」と答える。

鈴木が、ニュートンとアインシュタインの区別ができないマユをバカにして泣かしてしまったこと。

ホテルでの初体験の時、彼女をいささか粗雑に扱ったこと(具体的な描写はないが、行間からはそのような出来事があったことが窺える)。

彼女の部屋探しに散々付き合わされたことを根に持っていること(彼女の優柔不断が気に入らなければ、さっさと別れればいいのだ)。

そして最高にムカつくのは、酔っ払って彼女をラブホに呼び出し、けんかになったあげく彼女を叩いたこと。マユが鈴木の浮気をとがめた時も、鈴木は逆上した様子を見たマユが「暴力はやめて」といっていることから、彼は恒常的にマユに暴力を振るっていたのだろう。ちょっとしたことでキレる男と、彼の暴力暴言に堪える女。なんだか、マユが哀れに思えてならない。

物理学科の「鈴木」(以下「物理」)が、マユとつきあい始めた頃からこのような態度をとっていたのか、本作では具体的な描写はない。だが彼の述懐を読む限り、マユのことを本気で愛していたかどうかはすこぶるあやしい。彼の横暴な態度に嫌気がさしたマユは、彼がいない隙を狙って他の男性と関係し妊娠する。うろたえた「物理」は散々悩んだあげく、彼女の「中絶する」という決断を受け入れる。「物理」の子ではないことは、彼女とのSEXの度に「物理」がコンドームをしていたという述懐から明らかになる。

数学科の「鈴木」(以下「数学」)と出会った合コンだって、おそらく「物理」の目を盗んで参加したのだろう。だが彼女は「数学」を一目見て、彼は御しやすい人間だと判断したようだ。「数学」は彼女に恋心を抱くようになるが、実際はマユがそのように仕向けたというのが正解だろう。この時点で、恋愛に関しては海千山千になっている(と思われる)マユにとって、この程度の男を籠絡するのはお手の物。「体調が悪い」といっていたのは中絶するためであり、「数学」にはじめて抱かれる時、執拗にコンドームにこだわったのはそのトラウマが残っていたからだが、女の機微を察する力が皆無である「数学」は、そんな彼女の事情なぞ知るよしもない。「数学」の童貞喪失の場面は「ああ、俺の時もそうだったな」と思う読者も多いだろうが(因みに管理人は…お察しください)、普通の男性にとって感動的な「童貞喪失の相手」が、男性経験豊富な女性だったと知ったら、「数学」はどんな気持ちになるのだろう。「数学」はその後もマユを一途に思い続け、クリスマスプレゼントを送るのだが、マユはそのプレゼントを喜んで受け取る一方で、元カレである「物理」からのプレゼントを送り返した…

とまあ、とりあえずはマユに同情的な記事を書いてはみた。だが女ってやっぱり怖ろしいなあ。SEXだって、一度快楽の炎が点灯した女性は、男のスタミナが尽き果てるまで激しく燃えまくるというし(高学歴の女性ほどそれが顕著らしい)、従順にしていると思うとその陰で別の男を物色しているし、女というのは実に不可解な、そして不気味な生き物だ。「俺ってモテモテじゃん」と思っている男性諸君、そう思っている男性を女性は「なにあの勘違い男」とせせら笑っているのかも知れないのだよ。この本を読むと、男子が草食化するのも宜なるかな、と思わざるを得ない。

最後に一言。この作品は最近映画化されたのだが、この作品に必要不可欠なベッドシーンはほぼないらしい。因みにヒロイン役は「脱ぐ脱ぐ詐欺」の女優としてファンに認知されつつある前田敦子(写真集ではセミヌードを披露しているのに…)。彼女は「必要なら脱ぐ」といっていながら、今作でも脱いでいないらしい。いつになったら「完脱ぎ」するのだろうか?ファンは彼女の美しい裸体を拝める日を待っているのだが…。

Facebook にシェア
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`yahoo` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る
Pocket

本書で取り上げられているのは、ほとんどがビールとウィスキー。

日本人だから、日本酒の話題をもっと取り上げろっての!

これまで数多くの著作を世に送り出している椎名誠だが、酒に関する著作は意外にもこれが初めてである。帯に掲載されたキャッチコピーには

「ビールが好きだ。イヤウィスキーも欠かせない。ワインだっていいじゃないか。ラムもサトウキビ畑の中でざわわざわわと飲んだらたまらないぜ。どぶろくにも目がない。雪に囲まれた古宿の囲炉裏を囲んでグビリグビリ……。なんだ、サケならみんないいんじゃないから、といわれれば頷くしかない」

とあるので、世界中の酒事情をとりあげたものだと思っていたのだが、内容を見てちょっとガッカリ。この本は全4章で構成されるが、半分はウィスキーとビールの話題に当てている。さらに我慢ならないことに、日本人作家なのに、日本の酒は日本酒・焼酎を含めてほとんど出てこない。最後の方に、どぶろくの話題がちょこっと出てくるだけである。スペースの大部分を占めているウィスキーとビールの話題にしても、出典を見て「ああなるほどな」と思わず苦笑した。どうやら酒造メーカーからお金をもらって書かれた、宣伝文とおぼしきエッセイなのである。かつて「週刊金曜日」の編集委員を務めるなど、硬派なイメージを持っていたから、趣味の話になるとみんなスポンサーには甘くなるのだなと思った次第である。

冒頭から文句たらたらモードになってしまったが、興味深い事実も沢山知った。憤りを感じたのは、旧ソ連時代の酒場で体験したことである。当時は昼間から酩酊する市民が多かったが、それは当局からの圧政と慢性的な物資不足から来るストレスを解消するためだった。しかし政府は市民に対し昼間からの飲酒を禁止し、これを破るものには容赦なく暴力を加え、留置所に3日間も留置するのである。市民の生活改善はおざなりで刑罰だけはやたらと厳しい政府の態度に、筆者は「禁酒法時代のアメリカよりも酷い」と憤る。====政府がこんな調子だから、従業員の労働意欲も乏しい。レストランは、一度入ったが最後、最低3時間は外に出られない。料理を注文しても、店員は素っ気ない態度で「売り切れです」を繰り返すのみ。注文してすぐにでる料理はたった3品!従業員にはサービス精神のかけらもないが、驚いたことに、このレストランは政府幹部や観光客向けだというのだから、一般向けのレストランがどんな様子なのか見当がつく。

これと対照的なのは、ポルトガルの酒場である。木造のお粗末な建物は、50人はいればいっぱいなる規模なのだが、建物とは対照的に店内はオトナの雰囲気が漂い、これっぽっちも猥雑さを感じない。そこで提供される酒は、客がライターをつけて暖めるほどアルコール度数が高いのだが、それがまた最高なのだ。いい雰囲気になったところでファド(日本でいう「演歌」にあたる音楽)を歌う歌手が登場し、彼らが歌うファドにあわせて客は歌い、拍子をとる。なんと素晴らしい光景なのだろう。ばかでかい音響でがなる、ヘタクソなバンドしかいない旧ソ連の酒場とは偉い違いである。

本書ではこれ以外の地域の「酒事情」についても触れられている。メキシコの蒸留酒「テキーラ」の名前は実在する村から命名されたものであり、その原料はリュウゼツランであるということ。首都メキシコシティーは標高は2,300mの高地にあるため、平地に比べると二日酔いのきつさが半端じゃないこと、ドイツで開催されるビールの祭典「オクトーバーフェスト」は、ドイツ全土から200万人やってくること。北極圏でアルコールが禁止されているのは、アルコール中毒で苦しむ原住民が多数でた過去がある事に由来していること。モンゴルの馬乳酒は期間限定、パブアニューギニアには、いまも「口噛み酒」の伝統が残っていること。ベトナムでは、コブラをバラバラにして焼酎に入れ、それを一気飲みにする風習があること…etc。

この本を読んでいると酒、特にウィスキーは生き物であり、手間暇がかかるということがよくわかる。蒸留所では蒸す麦は、4時間毎に人の手でひっくり返される。だから蒸留所は、3交代勤務である。ウィスキーを入れる樽はすべて手作りであり、ウィスキーを入れる釜も、形によって微妙に味が異なるそうだ。微妙に異なる味を巧みに混ぜ合わせ、一つの小品にするウィスキー職人には、熟練の技が求められる。

水も重要で、スコットランドでは、蒸留所に近い田畑における農業は、化学肥料の利用を禁じているほどだ。サントリーが蒸留所を持っている小淵沢と山崎に共通するのは、いい水がある土地だということ。鳥井信治郎が山崎に蒸留所を作ることに決めたのも、ここが桂川・木津川・宇治川の合流地点で、高低差があって霧が出やすいのが理由である。京都に近いため、第二次世界大戦での空襲を免れたことで、原酒の損失を免れたことは幸運だといえるだろう。山崎蒸留所には、長年貯蔵している原酒が沢山ある。もし空襲でこれらの原酒が失われていたら、会社にとっては取り返しのつかないことになっていただろう。42年ものの原酒の値段が50万するのも納得だ。

でも著者が一番好きなのはビールだろう。本書の第3章は「○○しながらビールを飲んだ」「仕事の後にビールを飲んだ」という話ばかり.そういえばこの人、かつてはビールのCMにもでていたんだっけ。小学校の頃、はじめてビールを飲んで「こんなのどこがおいしいんだ?」というのが筆者の「アルコール初体験」だったのに、中学生になると完全に「酔いどれ学生」になっちゃったのは、なにがきっかけだったのだろう。酔ったまま海で泳いだり(よく死ななかったな)、お金がないから合成酒で盛り上がったり、あげくは酒屋からビールを盗んだり、「飲み比べ」と称して決闘をしたりともうやりたい放題。端から見ると、こんなムチャクチャをして命を落とさなかったなと不思議に思うが、やっている当人達は楽しんでやっていたのだから、周りがあれこれいうのはヤボっていうことなのでしょう。

酒を愛する文人は数多いるが、それで命を落とした文人も、負けず劣らず多い。著者も齡70年を超えた。飲酒生活60年近く、彼の肝臓はどうなっているのか、他人事ながら心配になってくるのである。これからも肝臓をケアしつつ、楽しい「酒飲み」人生を送ってもらいたいものだ。

Facebook にシェア
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`yahoo` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る
Pocket

No tags for this post.

いよいよはじまった「学級内裁判」。

「事故」か「事件」か。

「自殺」か「他殺」か。

「有罪」か「無罪」か。

学校当局の圧力、被告人の父親の逮捕、元担任の襲撃事件など、次から次へと押し寄せる想定外の出来事を乗り越え、学生達は「学級裁判」の開催にこぎ着ける。大人達が指摘するとおり、この法廷に下される「判決」に法的な意味はない。しかしこの裁判は、判事・弁護士・検事・被告人・各サイドの事務官・廷吏・陪審員・傍聴人と、正式な形式に則って実施されることに意味がある。法廷内では、判事の指示は絶対だ。彼の命令に従わない人間は、生徒だろうと保護者だろうと誰だろうと警告の木槌が打ち鳴らされ、それでも従わない者は、廷吏によって力尽くで退廷させられる。ここでどんな審理が行われ、どんな判決が下されるのか。生徒も保護者も、その行方を固唾を飲んで見守る。

「本件は空想です。被告人は無罪です」

弁護人の発言にどよめく廷内。城東三中の教師・生徒は、被告人に“問題児”というレッテルを貼り、彼らが犯人だという空想を作り出し、彼をスケープコートに仕立てたのです、と。彼の繰り出す弁論と論理の組み立て、その鮮やかな手腕の前に、法廷内は「被告人は無罪」という雰囲気が漂う。検事役を務めるヒロインの顔はみるみるうちに紅潮し、目はつり上がり、歯噛みする。その後も激しく展開する「犠牲者の正体」「事件当夜の被告人達のアリバイ」に関する、弁護・検察両サイドの激しい攻防。「被告人は無罪」という事実が確定した後の、弁護人が被告人にとった、通常の法廷審理ではありえない行動。そしてついに明らかになる、あの日あの場所で起こった事件の真相…====

第三者から見れば「生ける仙人のようだった」犠牲者。だがその正体は、希代の悪党。

表面的には「いい子」を装いながら、身近な人を騙し、傷つけ、苦しむのを見て平然としている「愉快犯」という名の悪魔。小説でははっきり書かれていないが、彼はおそらく多重人格者かつサイコパスなのだろう。なにがきっかけで彼がこんな性格になったのか、作中では明確な描写はない。彼に関して読者に与えられている情報は、子どもの頃から病弱であり、両親はそんな彼に惜しみない愛情を注いできた、ということ。彼らからすれば「健康に育って欲しい」という一心で彼に接してきたのかも知れないが、それが彼の性格形成に重大な影響を与えたのだとしたら、何とも皮肉なことである。

この作品を通じて、作者が訴えたかったのは以下の二つ。

一つは、人を見かけで判断してはいけないということ。

もう一つは「空気を読む」ことを気にするあまり、自己を殺してはいけないということ。

前者に関しては、確かに被告人の以前の行動には問題があった。本人の粗暴な性格と言動に加え、本校出身者でもある彼の父親は、息子が不祥事を起こす度に学校に怒鳴り込み、教職員とトラブルを起こすなど、関係者は彼らの扱いに手を焼いていた。彼らの過去の行状が関係者の心に蓄積された結果、さしたる証拠もないまま、本件の犯人は彼であるという噂がまかり通った。彼に容疑がかかったのは自業自得であり、同情の余地はない。このことは弁護人自身が弁護側尋問での

「被告人はハメられました。ハメるチャンスはだれにでもありました。被告人によって傷つけられ、恨む人間だったら、誰でも告発状を書くことはできました。『誰が告発状を書いたか』というのは表面的な問題に過ぎない。(だから)差出人を特定する必要はない。誰であってもおかしくないんですから」

という発言からも、それは明らかである。

しかし彼がこういう性格になったのは、その生育環境にも原因がある。彼は父親から溺愛されていたことは事実だ。だがそれは愛情ではなく「お金」という形で。そして彼は、父親から再三にわたり虐待を受けていた描写が見られる。子どもに対する過度な虐待は、子どもの心を傷つけるというが、おそらくこの生徒も、家庭内暴力の犠牲者だったのではないか。自宅では父親の暴力におびえ、彼のいうことには絶対服従。そのストレスが、学校内での暴力に向かっていたのではないか。

そして「空気を読む」ということ。本件では確かに、被告人が殺人を起こしたという証拠はなかった。だが彼の日頃の行動から、いつの間にか彼が犯人であるという「空気」が作られ、それに反対する意見は全くといっていいほど上がらなかった。美術教員は学校内に流れる空気を、17世紀フランドル(現オランダ)の画家ブリューゲルの「絞首台のカササギ」という作品に例えていた。この絵は青空の下街を見下ろす小高い丘で、ピクニックを楽しむ人々の情景を描いたものだが、その丘の上に絞首台があるという、不吉で謎めいた作品である。この絵が描かれたのは、宗教改革の真っ最中で周波を問わず教会の異端尋問や魔女狩りが烈しかった時代。この絵に出てくる「カササギ」は、ヨーロッパでは「嘘つき」「密告者」になぞらえられることがある。教員は犠牲者が、学校生活になじめない人間だろうと推測しているが、おそらく他の生徒も「彼は犯人ではない」といったら、他の生徒から仲間はずれにされるだけでなく、次のいじめのターゲットにされるのではないかと思ったのだろう。実際「犯人は彼ではない」という生徒がいなかったばかりに、事件後の校内では思わぬトラブルが起こったのだから。

「現実の中学生が、これだけ立派な考えと行動力を持っているわけがない」

「こいつら、本当に中学生か?」

書評サイトにこんな感想を書いている人は、今人気のアニメの作品に出てくる登場人物のほとんどは、年齢が中・高生の設定になっていることに違和感を覚えないのだろうか。はっきり言って、このお話に出てくる大人達は、生徒たちの活動を応援するどころか、逆に自分の保身のために、生徒たちの活動を邪魔しようとした。その代表例が「学級内裁判」のきっかけを作ったテレビ局の人間である。しかもこの男はことの顛末を本にしようと企み、前校長から呆れられた。そういえば彼は、証人として証言する時も、自説を延々と語るだけだったっけ。テレビ局の記者全員がそうだとは言わないが、その自意識過剰な発言は怒りすら湧いてくる。中学生がこれだけの行動力を示したのは、大人達がだらしがなかったから、だといえるだろう。

20年後「学級内裁判」に関わった生徒が、教師として母校にやってくる。彼は「僕たち、友だちになりました」といっているから、このときのメンバーとは未だにつきあいがあるのだろう。ヒロインの20年後は、下巻に収録されている「負の方程式」に収録されているので、そちらをご参照願いたい。個人的には「不良三人組」がその後どんな人生を辿ったのか、被告人の家族がどうなったのかが気になる。

Facebook にシェア
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`yahoo` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る
Pocket

No tags for this post.
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。