今年も、カレンダーが残り1枚になってしまった。

こんなにわくわくしない年末年始は経験がない。

右傾化し、人種差別が公然とはびこる社会。

縮まるどころか、広がる一方の格差。

少子化の影響で、パイがどんどん小さくなる経済。

ワカモノはワカモノで、自分の行動がどんな影響を与えるのかということを考える気配すらない。

マスコミの、政府与党べったりの姿勢は醜い。

知識人やNGOに至っては、自分たちよりもバカな人間、貧乏な人間を小馬鹿にしているとしか思えない。

希望は見当たらず、ひたすら重苦しい空気だけが漂っている。

個人的にいろいろストレスを抱えた結果、先月はとうとう記事を書けずじまい。

まあ、こんな弱小ブログの最新記事を、楽しみにしている奇特な人もいないだろうけどね。

さて、先月読んだ本の紹介。

10月に読んだ本の紹介より先になってしまったことを、当ブログを訪問してくれた人にお詫びしたい。

コミックは、いずれ改めて感想を書く(書けるのか?)。

青の数学

「数学」にとりつかれた高校生たちを取り巻く世界を扱った群像劇。テーマがテーマだけに、ここで繰り広げられる世界を理解できる人は、おそらく数学が好きな人、理系的な思考に長けている人に限られるだろう。世界観も文体も「わかる人だけついてくれればいい。わからないヤツのことは知らん」という雰囲気が滲み出ている。もっとも、この作品の「独特な文体」は、読書界から「クセが強い」と評価される「魔法科高校の劣等生」の作者が織りなすそれとは、次元が全くが異なる(理由はいうまでもない)。本作の登場人物の目標は「数学オリンピック出場」であり、そのために彼らは己の能力を最大限に振り絞る。1対1の決闘形式あり、タッグマッチの対戦ありという試合形式は、スポーツと何ら変わりない。ある少年は問う。「なぜ数学をするのか?」と。そもそも、この問いには正解というのがないのかも知れない。「マニュアル」という概念が隅々まで浸透したことで、人々は手軽に「正解」をほしがるようになった。だが彼らにとって「数学」とは「生き方」そのものなのだと思えるのである。「人生」に正解などないということを、作者は一番訴えたいのかもしれない。

社会学がわかる。

1996年に出版された、大学生向けの社会学入門書。「社会学とはなんぞや?」と聞かれたら、大人たちは何と答えるだろうか?「社会についての学問」と答えても、質問者はおそらく納得するまい。下手をすると堂々めぐりの禅問答のようになり、質問者と回答者の間に軋轢が生じることになる。すると、ある人は「お前だったら、どう回答するんだよ?」と突っ込んでくるに違いない。冒頭に出てくる25人は「学び方」について熱く語っても、多くの読者が求めているであろう「社会学とはなんぞや?」という質問には答えてくれない。その答えは、第二章にあたる項目をご覧いただきたい。女性の社会進出、医療問題、外国人の出稼ぎ、異文化交流、そして青少年が抱える問題。これらの問題は、20年以上前から再三にわたり指摘され論じられているにもかかわらず、解決に至る道筋が見えないと感じるのは私だけではあるまい。我が国おける社会学の第一人者・見田宗介氏は「社会学は『越境する知』である」と書いているように、現代社会を読み解くには、さまざまな角度からの知識が必要である。にもかかわらず、現在の社会学者たちは己の専門という名のタコツボに閉じこもっているのはなぜか?「海外社会学事情」の項目では、この学問の礎が「哲学」に基づいていることがわかるだろう。政治にしろ学問にしろ、今の日本が衰退しているように思えるのは、ひとえに日本人が「哲学」という概念を軽んじすぎたからでは?と思ってしまうのである。

まぼろしのペンフレンド

1960~70年代にかけて、日本SF文学界で一世を風靡した作家の、1970年代を代表する作品の一つ。文体や表現が平易であり、使われている漢字もそれほど難しくないので、すらすらと読み進められる人は多いだろう。それもそのはず、この作品は1960年代の高度成長期からバブル崩壊直前の時期まで、旺文社発行の学年誌「時代」シリーズとともに、中学生・高校生に人気があった学習研究社(学研)が発行する「コース」シリーズのひとつ「中学1年コース」に連載されていたものである。この時代の学年誌や漫画雑誌には、共通の趣味を持った友だちが欲しい人のために「文通コーナー」なるものが設置されていた。この作品の主人公も、友だちを求めて雑誌の文通コーナーに名前と住所を告知したばかりに、悪巧みを狙う集団に狙われるというお話。ケータイやネットが当たり前の社会に生きている若者には理解しづらいかも知れないが、1970年~80年代に青春時代を送った人たちにとっては、懐かしく感じるに相違ない。展開、文体、結末、どれをとっても巷に溢れている「ライトノベル」とは比べものにならないほど素晴らしいものであり、織り込まれている主題も「ひょっとしたら、この人は現代はこのような社会になるのではないか?」という危惧を持って書かれたのかも知れない。同時に収録された短編2本から漂う感覚も、現代社会に通じるものを感じるから怖い。

最後の秘境東京藝大 天才たちのカオスな日常

著者は、これまで推理小説やホラー小説をメインに発表してきた作家。その彼が「東京芸術大学」をテーマにした本を発表したのは、彼の奥様がこの大学の美術学部で彫刻〈木彫〉を専攻する学生である、以前から藝大に通う学生の生態に興味を持ったからである。ルポルタージュという形式を取っているが、内容のほとんどは、現役の学生(OB・OGもいる)に対するインタビューである。刊行直後から、この本はノンフィクション界隈はもちろんのこと、出版界全体からも話題になり、10万部を超えるベストセラーになった。

ネット上(特にア○○ン)では

「内容が面白くない、提灯記事のオンパレード」

「(芸大は)カオスじゃなく普通の学生が集う大学。普通の大学の方がよっぽどカオス」

「著者のインタビュー技術は稚拙で、分析も感想も甘すぎる」

という意見も見られるが、私は芸大生の本音が余すところ語られた、見事なインタビュー集であると思った。多彩な専攻を持つこの大学だが、この本に出てくる人物はどれもこれも個性的であり、彼らを通じて芸術の奥深さ、新たな知見を得ることができたのは大きな収穫である。と同時に「オカネ」に対する感覚が、「美校(美術学部)」と「音校(音楽学部)」で全く違うことに、驚かされる読者も多いだろう。必要なものは道具を含め、可能な限り自作する美術学部の学生。懇親会を鳩山会館で開くという、おそらく「セレブ度」では日本一の音楽学部の学生。そんな彼らの話からは「表現することの素晴らしさ、表現することの喜び」が伝わってくる。いいなあ、自分もあの世界に飛び込んでみたいものである。

巨大銀行の構造

バブル経済が崩壊し、各銀行が抱える「不良債権」問題が露見しつつあった1993年に書かれた書籍。著者の津田和夫氏は、東大卒業後に三井銀行に入行。その後は関連会社の欧州総支配人、投資銀行常務、総合研究所取締役を歴任した。本書刊行時は青山学院大学、佐賀大学大学院で教鞭を執っていたが、その後の経歴は不明である。

その経歴より、作者の見方は「銀行べったり」だと思っていたのだが、実際は1990年代の銀行業界及び金融行政に、極めて辛辣な見方をしていたことを知って驚いた。本書の内容は難解な経済・金融理論だけでなく、銀行員の業務、金融商品、戦後日本経済史、金融商品の紹介など、広範な分野をカバーしている。経済理論が理解できないと思っている読者は、興味のある項目から読み進めればいいだろう。「不良債権」の問題はこの時代から騒がれていたが、当局の動きは重かった上、銀行業界内の自浄能力も乏しかった。彼らが筆者の忠告に耳を貸し、事態解決に向けて適切な対策を打っていたら、本書刊行後に起こった、あのみっともない事態は起こらなかっただろうと確信する。そんな過去にもかかわらず、今の銀行業界関係者は、あの不祥事は「なかったこと」にしてしまっているようにしか見えない。国民は、そのことを一生忘れないだろう。

烏に単は似合わない

ファンタジー小説「八咫烏(やたがらす)」シリーズの第1作。平安時代に代表される王朝文化に似た時代を背景に、人間が烏に化けることができる(あるいは、烏が人間に化けたというべきか)世界という、極めてユニークな設定。前半は山に囲まれたとある国の王位継承者の皇后をめぐり、東西南北四家の姫によって繰り広げられるお話。恋の駆け引きと陰謀で進むそのストーリー展開は、読み応えたっぷりである。しかしこの雰囲気も、ひとりの官女が行方不明になったことで、一気に暗い展開に墜ちていく。最終章の展開は二転三転し、ハラハラドキドキといえば聞こえはいいのだが…。「松本清張賞」を受賞するなど注目を浴びた作品だが、ネット上にアップされた読者の評価は賛否両論。ネタバレになって恐縮だが、ここまで評価が分かれた理由は、物語前半の語り部を担う姫にある。もう一つは、本来の主人公である王位継承者の登場が、あまりにも唐突だったことだ。前半で彼の登場に関する伏線を張っていれば、ここまで悪し様に罵られることもなかったかもしれない。しかしそれらしきものが何もなかったため、読者の不満が高まることになったのは残念。このシリーズはこれまで5巻(文庫版は3巻)刊行されているので、シリーズを通して読めば、これまでの疑問点は氷解するだろうと思われる。だが本作の印象が最悪だったため、多くの読者は本作でこのシリーズを見限ったに違いない。すっきりしない終わり方である事は確かだが、次巻以降の展開が大いに気になる作品である。第二作目以降の展開は、韓流ドラマばりのどろどろした展開になると思われるが、さて?

「明日への対話 」人道援助、そのジレンマー「国境なき医師団」の経験から

1999年のノーベル平和賞受賞団体「国境なき医師団(以下「MSF)」フランス支部会長(1982~94年)を務めた医師ロニー・ブローマンのインタビューを文章化したものである。彼はユダヤ人であるにもかかわらず、故国イスラエルのパレスティナ政策に、批判的な眼差しを向けているのが印象深い。NGOと政治の関係は、一言で言い表す言葉が見つからないほど難しいものである。支援対象にしている国家の政権が、民衆を抑圧する政策をとっている場合は、彼らの活動は厳しい視線に立たされがちだ。政権に厳しい態度を取るべきか、あるいは自分たちの活動をしやすいように、政府に対して融和的な態度を取るべきかどうか、葛藤と内部対立で苦しむNGOは多い。そういえば日本のNGOも、イラク戦争で政府に対する態度はバラバラだった。政府・与党に厳しい態度を取るところもあれば、政治とは一定の距離を置くところもあったっけ。政治と経済の関係と同様、人道支援と政治経済の問題も、密接に絡み合う。この難問にどう立ち向かえばいいのかの答えは、自分で見つけるしかないのだろうか。

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