「2016年8月の読書リスト」

オリンピックと甲子園という、国内外のビッグスポーツイベントが終わり、今年も9月に入った。

まだまだ暑い日が続くが、日本、そして日本の政治は終わったような気がしてならない。

今回の参議院選挙と都知事選の結果を見て、極右・復古派はしめしめと思っているに違いない。もっとも後者については「保守分裂」という願ってもない好機を生かせなかった、野党陣営の作戦ミスも大きい。

右傾化する若者世代に一石を投じるべく結成された若者団体「SEALDs」の解散会見が、今年の終戦(敗戦)記念日に開かれた。

大学生が中心になって結成されたこの団体は「怒れる若者の代表」として、一躍マスコミの寵児になった。全国に関連団体ができたことで、同世代への影響を与えうる団体と見なす人たちも多かっただろう。参議院選挙の一人区における野党共闘は、彼らの存在なくしてはありえなかったのは確かだ。今回の参議院選挙から、投票権がこれまでの20歳から、18歳に引き下げられた。そこにSEALDsが登場したから、彼らの活動に刺激を受けた同世代が「反安倍」に1票を投じるのではないか?という見方もあったが…結果は、皆様ご承知の通りである。

はっきり言って、私は彼らが与える「影響力」とやらを疑問視していた。今の日本では「世間で名の通った大学の学生=文化資本の高い階層出身が多い」と思われがちである。実際、ボランティア活動に積極的に関わっている学生は、知力・資力において余裕のある学生が大勢を占める。おまけに今の大学生は、自分と似たような境遇の人間、同じような環境で育った人間としか付き合わない。まれに異世代と付き合う人たちもいるが、それは自分たちにとってメリットがあるからである。女子学生はこれが顕著で、自分たちにプラスになるかどうか、ちょっとした会話で瞬時に判断する。

そしてこれらの体質は、NGO関係者にもいえることである。会話した相手の知性並びに文化資本が、自分たちより明らかに低いとわかると、よそよそしい態度をとる人間の何と多いことか?「せっかくだから寸志・会費はちょうだいします。ですがあなた方の意見を聞く気はありません。黙って我々のやり方についてきてくれればいいのです」という不愉快極まりない感触を、私は何度も感じた。

それはSEALDsも同じこと。彼らがシンポジウムを開くというので彼らのHPを見た私は、その金額を見て、心の中で怒髪天をついた。入場料3,000円だと!

学生の多くは、将来に怯えながら生きている。学費を滞納しないか?奨学金を打ち切らたり、アルバイト先をクビにならないか?クビにならなくてもバイト先から不当な扱いを受けないか?無事に就職先が決まるか?卒業しても借金苦に陥らないか?食費をギリギリに切り詰めても、公共料金や家賃を滞納しないか、びくびくしながら生活している彼らにとって3,000円というのは、おいそれと払えない金額である。組織運営費、会場費がかかるのは理解できるとしても、この金額はいくら何でもぼったくりではないか!50代に近いわたしですら憤りを感じるのだから、同世代はなおさらだろう。

生活に苦しんでいる学生にとって、彼らの存在は「別世界の住人」「異星人」にしか見えないに違いない。こっちは日々の生活に追われ、料金や家賃滞納の恐怖に直面しているのに、彼らは何事もなかったかのように「戦争反対」「原発再稼働反対」と国会前で叫んでいる。生活や将来の心配をする必要のない人はうらやましいよねと、静かに冷たい視線を浴びていることを、SEALDs関係者とその支持者は理解しているのだろうか?

確かに今の「若者」にも、真剣に「脱原発」「戦争反対」を願っている学生もいるだろう。しかし大多数の若者は、そんなことよりも「真っ当な就職先」「格差対策と機会の均等」を強く求めているのである。今の若者は、心身とも疲れ切っており、社会問題に関わる余裕はない。SEALDsに限らず「左派」知識人並びにメディア化傾斜が、これらの問題をもっともっと取り上げ、彼らの意見に耳を傾ける姿勢を見せていたら、参議院選挙も都知事選も、違った結果になっていたはずである。

それでは、先月読んだ本の紹介である。

 

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モア・リポートの20年ー女たちの性を見つめて

1983年、世間に衝撃を与えた「モア・リポート」シリーズの最新データを集めた一冊。このアンケートは1980年、1987年、1999年の三回にわたって実施され、その時々の女性の「性」に関する意識の変化を克明にとらえてきた、貴重な記録である。1980年と1987年のアンケート結果は単行本にまとめられ、文庫化の際前者は2分冊、後者は3分冊で刊行されたが、1999年のアンケートは、新書版で刊行された。セックスの回数を掲載しているのだから「好きな体位」「イキやすい体位」もアンケートの項目に掲載して欲しかったと思うのは、私だけだろうか?1998年のアンケートでは、援助交際、テレクラ、不倫、セックスレスの概念が入り、女性たちの性に対する認識の変化が窺える。そして「イク」「オーガズム」という概念は、今も女性たちを苦しませている。本来SEXというのは、男と女の間で交わされる、愛情を深める手段のはずなのだが、そのことを理解しない男性が多い事実には、憤りを感じるのである。

モア・リポートは今世紀に入って1回行われた記憶があるが、その結果が書籍にまとめられた形跡はない。もうそろそろ、21世紀日本女性の「SEX」に対する認識を知りたいと思っているのだが。

アグネス白書

氷室冴子が遺した、少女小説の傑作の一つ。前作の「クララ白書」が中学校時代(正確には「中等部寄宿舎時代」だが)の話だが、今作は高等部寄宿舎「アグネス舎」が舞台である。

無事に徳心女子学園高等部に入学した「しーの」こと桂木しのぶ。彼女は平穏無事な寄宿舎生活を望んでいたはずなのだが、相変わらずトラブルの種は尽きない。高等部入学早々、外部からやってきた女子生徒の扱いに四苦八苦。さらに中学時代からの親友・マッキーの恋愛騒動に振り回され、その騒動がやっと決着がついたと思ったら、今度は自身の恋愛(と本人は思っていないが)問題が持ち上がる。始末の悪いことに、この問題には尊敬する上級生たちも絡み、誤解が重なったあげく、中等部時代からつきあいのある男子大学生との関係に亀裂が入る。関係修復に走るしーのだが、相手は完全にへそを曲げてしまった。普通の女子高生だったら、完全に精神が崩壊しておかしくない展開である。さて彼女は、この事態をどう打開していくのだろうか?

美術館の舞台裏 魅せる展覧会を作るには

丸の内にある落ち着いた雰囲気を持つ美術館である、三菱一号館美術館。同館の館長が書き綴る、日本の美術展と美術館の実態と現状。日本の美術館に対する公的援助が少ないことは、以前から重々承知していた。自前で用意できるコレクションに乏しく、海外にネットワークを張り巡らす新聞社・メディアの力なくしては、日本の美術館で海外芸術の展覧感を開催することは難しいのだ。そのことが、日本の美術館とメディアの関係に悪影響を及ぼし、日本に真っ当な美重点の評論が存在しないことを、筆者は心から憂えている。「寄付」と「寄贈」の違い、美術品を巡るドロドロの世界、美術品と光(太陽光、室内照明問わず)の関係…。「学芸員」の地位が、海外と日本とでは全く違うことに、驚く人も多いだろう。大学の講座で簡単に取得できる日本に対し、高度な試験を突破しないとその座につけない海外。自前で用意できるコレクションがない(少ない)が故に、日本独自で発展した様式が、海外の美術関係者から奇異の目で見られていることは、日本人美術愛好者の一人としては肩身が狭い。そしてここ数年の世界的不況で、海外の美術館も経済的苦境に陥っているのは、美術ファン、美術展覧会好きには気がかりな状況である。美術というのは、このまま「金持ちの道楽」になってしまうのだろうか。

アグネス白書パート2

「アグネス白書」の続編。筆者が大学時代を過ごした、札幌にあるカトリック系ミッションスクール「徳心女子学園」の寄宿舎を舞台にしている「クララ白書」「アグネス白書」シリーズだが、時系列でいえば、前者は中等部3年での中途入寮~中等部卒業まで、後者は高等部1年次に起きた出来事を取り上げている。なぜこの時系列にしたかどうか、今となっては確かめる術はない。個人的には、筆者にとってこの2年間は「暗黒時代」であり、自分が理想とする学生生活を送ってみたかったという願望を、少女小説という形で再現してみたのではないか?と思っている。個人的には女性は「魔物化け物の類い」であると思っている管理人だが(その理由は書くつもりはない)、同年代の女子の交流とは、かくもややこしいものであり、男が想像する以上に陰湿であり、そして理解不能だと嘆息せざるを得ない。そして本巻でも、主人公「しーの」は自分の力では難局を打開できず、相変わらず周囲の都合に振り回されっぱなしである。救いは、彼女には理解者と友人に恵まれているということ。これだけでも、彼女は十分に幸せ者だと思うのだが。

ハイキュー!!(7)

第6巻に引き続き、インターハイ宮城県予選3回戦、青葉城西との対戦の模様である。

正セッター、影山に変わって登場した菅原は、影山とはまた違ったトスワークで、相手を混乱させる。敵将から「日向以外のアタッカーの使い方がヘタクソ」だと見破られた影山だが、トスワークとリズムを読まれはじめた菅原に交代するかたちでコートに戻ると、今までとは違ったプレースタイルをとるようになる。彼の急激な心境の変化に、戸惑うチームメートたちが浮かべる表情がおかしい。影山が復調したおかげでチームは勢いを取り戻し、第2セットを奪って1-1のタイに。勝負がかかる最終セットも、とっては取り返しの展開を繰り返し…。

そのプレースタイルから、主人公サイドや読者から「ラスボス」と思われている及川。だが彼もまた「努力の人」だった。一見飄々としているが、彼もまた人に言えないトラウマを抱えているのだ。挫折経験のない人間はいない、みんな心の奥底に、何らかのコンプレックスを抱えている。それが一般人のレベルからすると、遙かに高いところにあるとしても。この作品が人気を集めているのは、登場人物の心の傷について、きっちりと描いているからだと思う。

カラヤンがクラシックを殺した

筆者の専門は20世紀を中心にした美術史と芸術学で、その方面では高い評価を得ている。

その筆者が「カラヤン」をテーマにしたクラシック音楽の本を書いたのは、専門分野である「20世紀の芸術」との関連性があったからだろう。だができあがったのは、難解であり、見苦しく、独りよがりな文体で彩られた、この上なく醜悪な「カラヤン批判本」だった。筆者は「カラヤンによって、クラシック音楽が持つ精神は堕落する方向に向かった」と主張するが、そのような音楽を受け入れたのは現代の聴衆である。カラヤンは彼らに受け入れられるように、自分が持っている美学を大衆にあわせてに過ぎない。非難されるべきは、彼にそのような美学を要求した聴衆であり、カラヤンではない。

筆者がカラヤンを嫌うのは勝手だが、このような主張がクラシック音楽のファンを買うのは当然であり、ネット上の評価が芳しいものでないのも宜なるかなと考える。

余談だが、筆者は本書を上梓してから約半年後に急逝した。今生きていたら、どんな音楽評論を書いていたのだろうか。彼の書いた哲学本、美術本をもっと読んでみたかった。

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本作は、第147回直木三十五賞(直木賞、2012年上半期)を受賞した辻村深月のデビュー作である。彼女はこの作品で、第31回メフィスト賞を受賞した。文庫版で上・下巻計1,000Pをこえる大作だが、最後まで読者をあきさせない展開は、この作品が作者のデビュー作である事を感じさせない、見事な出来となっている。

本作は、とある地方都市にある県下一の進学校・私立西南学園高校で開かれた文化祭最終日に、同校生徒が飛び降り自殺するというニュースで幕を開ける。メディアはこの事件を「原因は受験ノイローゼか?」と報道した。

それから3ヵ月が経過した雪の降る日の朝、普段どおり学校に登校した8人の高校生。彼らはいつもと同じ時間に登校し、授業を受ける…はずだった。

ところが、いつもと様子がおかしい。

校舎の中に、彼ら以外の生徒がいる様子がない。

そればかりか、職員室にも教師がいない。

もちろん、彼らの担任教師も姿を消していた。

彼らは真相を探るべく職員室に潜入し、そこで1枚の写真を見つける。

その写真は、彼ら8人の集合写真だが、写っているはずの1人がいないことに気がつく。

やがて、このクラスで同級生が自殺したことを思い出すが、その人物が誰なのか、顔も名前も思い出せないことに気がついて愕然とする。

そのため自分たちの中に自殺者がいるのではないかと、お互いに腹の探り合いを始める8人。

その過程で、彼らが抱える心の闇が明らかになっていく…。====

いじめ。

たえず付きまとう疎外感。

クラスメートから貼り付けられた「優等生」という疎ましいレッテル。

援助交際。

自分に対する自信のなさ。受験のプレッシャー。漠然とした将来への不安感。

自分に自信がないことから来る、恋愛への恐怖。

失恋。

ストーカーまがいの恋愛感情。

自殺。

繰り返されるリストカット。

無理心中。

この本で取り上げられるテーマは、多くの若者が抱えている問題である。

ぱっと見では「進学校に通う高校生」の彼らも、その心には、人知れぬ闇を抱えている。

本作を読む前か、読んだ後かは忘れてしまったが、 その昔「夜のピクニック」を読み終えたとき、ある種の違和感を感じたのを思い出す。この小説で扱われるテーマが、一晩かけて80㎞をひたすら歩くというのもあるが、その中では複雑で微妙な人間関係にも触れているはいるが、このお話の登場人物の悩みは「冷たい-」の登場人物が抱える悩み、苦しみ、心の闇に比べれば、取るに足らないものである。それだけにこの作品の世界観は、ある種のリアリティを持っているといえるだろう。

そして、突然登場する担任教師。彼の正体とは一体?

さらに、この事象の真相とは…

それから2年経った、夏のある日。

彼らは帰省で地元に戻り、近況報告と当時の思い出話に夢中になっている。

東京の大学に進学した者。

自らの経験を生かすべく、心理学を専攻する者。

教師を目指して、地元大学の教育学部に進んだ者。

京都の大学に進んだ者。

その人物を追いかけるように、京都の医科大学に進んだ者。

京都にいる2人以外の仲間たちは、自殺した元クラスメートの墓参りに行き、冥福を祈った。

クラスメートの自殺は、残されたものに衝撃を与える。

自殺のことなんか忘れたい、思い出したくないという気持ちから起こった、あの事件。

この小説のすごいところは、各人が抱える悩みや心の闇を扱いつつ、決してウェットな展開になっていないということ。これらの問題をテーマに扱うとき、一つ間違えれば、読者に「つらい」という感情をあたえかねない。読者にマイナスの感情を与えない作者の筆力は、ただただうなるばかりである。

最後まで読み通して、彼らの将来に幸あれと思わせる、粋な終わり方。

自分もできることならば、彼らのグループに入ってみたいと思わせる作品はめったにない。これは、そのひとつである。

できることなら、冒頭の自殺の一件は「実は冗談でした」というオチだったらよかったのだが…。

蛇足ながら、私が感じた違和感を一つだけ触れておく。

それは彼らの進路が「文系」「理系」と分かれているのにクラスなのはどうして?ということ。

「普通科」のある高校では、よほど偏差値が低い学校でない限り、高校2年生に進級すると、生徒は自分の将来を見据えて「文系」「理系」のコースを選択するのが普通だ。世間一般でいう「進学校」は、高校3年生になると「国公立文系」「国公立理系」「私立文系」「私立理系」という感じで、細かくコースが分かれる。

ところがこの物語に登場する生徒たちは、文系学部に進んだ生徒もいれば医学部に進んだ生徒もいるのに、1年間同じクラスで学んだとしか思えない。ごく希に、文系・理系のコース分けをしない学校があるという話を、何かの本で読んだ記憶がある。あるいは、自分の受験に必要のない科目の授業中は、他の教室で自習を認めるシステムをとっていたのだろうか。

辻村はこの作品以降、次々と注目作を発表している。

直木賞受賞以後は取り上げる題材が幅広くなったが、個人的には、このような独特なタッチの作品をもっとつくって欲しいな、と思っている。

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